2016年6月24日
ゆきゑ
日本に初めてヨーガが伝えられたのは、なんと平安時代。西暦806年のことです。学僧として唐へ渡った空海が、密教の修行法のひとつ「瑜伽(ゆが)」として伝えています。
瑜伽とは、サンスクリット語のヨーガを音写した仏教用語です。
原義の「結びつける」が発展し「心を引き締めること」、すなわち「意識を制御し心の統一を得る修行法」となり、禅定に入ることや座禅を組み瞑想する真言密教の行法として体系づけられました。
それから時を経た1919年、自らの病をインドの山奥での修行により克服し、『大宇宙の力と結びついている強い存在が自分である』という悟りを得た中村天風が、日本で初めてヨガの教えを説き始めました。
「いのちの力」を最大限に発揮するには心と体の一体が重要である。
中村天風はこの哲学に基づき、「心身統一法」という具体的な実践方法を示しました。政財界から文化人まで、多くの著名人に大きな影響を与えたと云われています。
その同じ年の1月、後に日本の第一ヨガブーム旋風を巻き起こす偉人が生まれました。
日本のみならず、世界へその名をOKI DO、またはOKIDO YOGAとして知らしめた、沖正弘の誕生です。
沖正弘は、警察官の父親と熱心な浄土真宗の信者である母親の長男として生まれました。5人兄弟の内3人の弟は幼い頃に死去し、正弘自身も病弱な幼児だったと云われています。
両親は絶えず5人以上の子供達を預かり、家族として分け隔てなく面倒をみていました。大勢の中で育つことで子供は社会性を磨くと考えていた様です。
子供達が興味を示した物事に自力で体験ができるよう、最大限の協力を惜しむことのない父母でした。
暇さえあれば座禅を組む自己統制力に富んだ父親と、絶えず念仏を唱える信心深い母親。父母は子供達の自由意志を尊重する教育方針に徹していたのです。
自主性と自立性を尊重され、伸び伸びと育った沖少年はいたずら好きな子供でもありました。しかし、叱らなければならないような状況でも両親は責めることがありません。
まず、間違ったことをしでかした心が落ち着つくのをお互いに待ちます。そして、子供達が過ちに気づき、間違っていた点や改めるにはどうすればよいのかを理解し考えられるよう、話し合うのが常でした。
その元にあるものは宗教心であろう、と沖は語っています。
「私達二人は縁あってお前の親になった。私達二人を親にしてくれたのはお前だ。私達を親にしてくれたお前と云う縁に対し、感謝しているのだよ。」
父は時折、沖少年に向って云うのでした。
母は6歳の沖少年に申し出ました。
「すべては神様のものです。ですから、お前は私達のものではありません。親子とは仮の名です。
私達はお前にお仕えさせて頂かなければならないし、お前は私達にお仕えしなくてはならないのです。仕え合うということは、お互いが育て合うということです。
世の全ての人や物にお仕えするにはどういう心を養ったら良いか、一緒に勉強しましょうね。」
そして、もし親である私達の間違いに気づいたら叱って頂戴、と子供である沖にお願いするのでした。
両親共に無口で、大勢の子供達がいるにも関わらず家の中はいつもお寺のような静けさと雰囲気を醸しだしていました。
父親が幼ない沖にまず教えてくれたことは、静座することだったといいます。気持ちを落ち着けて静かに座る。すなわち、座禅です。
静座法と念仏は、沖にとって年少の頃より親しみ深いものでありました。
インド独立運動の平和的改革者、マハトマ・ガンジーと並び称される英雄がいます。
反英闘争の先頭に立ち、度重なる投獄による弾圧に屈することなく戦い続けたビルマの傑僧、ウ・オッタマ僧正(1879年〜1939年)です。
若い頃にイギリスでの留学経験があるオッタマ僧正は、世界の予測を翻し日露戦争に勝利したアジアの強国日本に憧れ、1910年(明治43年)に初来日しています。そして、3年間にわたる視察を『日本』という著書にしたためました。
この本は発行されるやいなやビルマの若者達の心を魅了し、国民の独立への思いを喚起させたといわれています。
沖少年が初めてヨガについて耳にしたのは、この僧正からでした。
沖家に、オッタマ僧正が数日滞在されたのです。少年が小学2年生の時でした。
幼い頃より静座と念仏に親しみ、釈迦やキリスト、マホメットといった聖人について両親より聞かされていた沖少年は、僧正に尋ねたいことがたくさんありました。
「お釈迦様はどうやってあんなに偉い人になられたのですか。」
「ヨガをなさったからだよ。」
ヨガとは何かという少年の問いに、オッタマ僧正は人を救う顕教と人を悟らせる密教の二つの”教え”のうち、ヨガは密教の教えであると沖少年に答えました。
顕教には教えを説いた教本があり、それを教えてくれる師がいるが、密教は教本も師も無いと聞き、少年は驚きます。一体どのようにしてヨガとは学ぶことができるのだろうか。
「それでも学ばなければならないとすれば、お前ならどうする。」
僧正は逆に沖少年に尋ねました。
「頼るものが何もないのなら、、、自分で手に触れてみます。自分で実際に見てみます。自分の足で実際に歩いて、自分の頭で考えてみます。それ以外に方法はありません。」
「そのとおり。それが密教なのだ。
自分は先生であり生徒である。自分以外すべてのものを師とし、すべてを恩人とする。その場その場が学校だ。日々与えられるすべての縁が教科書となる。
一生学び、実行してゆく。自分を発見してゆく道がヨガなのだよ。」
沖少年の入学した中学校は精神修養を大変に重んじる校長の下、毎朝授業前の1時間が座禅の時間にあてられていました。
勉強を学ぶところだというのに毎日朝から座禅を組まされるなんて、時間の無駄だ、なんと馬鹿らしい、と感じていた沖少年でした。しかし、1年、2年とやり続ける内にだんだんとその効果に気づき出したのです。
確かにやらない時よりもやった時の方が調子がいい。
そして座禅の目的が悟りであることを知り、悟りというものに猛烈な興味を抱きました。
16歳の頃には沢庵禅師に憧れ、禅師の著書を読み漁り、分からないなりに悟りというものを懸命に考えるのでした。
そして無心の極致、一念の極致こそが悟りの境地であることを知り、それには座禅が一番であると時間を惜しんで座禅に精を出すようになりました。
とうとう禅寺に入り座禅を組み、念仏を唱えたり、修養団に入るなど、その探究心は留まるところを知りません。
沖の両親は、そんな沖青年と一緒に冥想し、禊ぎを行うなど、学びを共に深めていたそうです。
沖は父親の人生はある意味33歳で終っていた、と語っています。腎臓癌と直腸癌を併発し、33歳から以降7年間、入退院を繰り返していたからです。
それでも療養後にはいつも通り仕事をこなし、周囲が心配のあまり声をかけると、
「死と病と仕事は別です。病と死は無関係です。死ぬ時は死ぬ。
私は自分のために仕事をしているのではありません。ご恩報じです。息の絶えるまでやります。」
と応えるのが常でした。
いつも表情を変えることなく、苦しみ悶える状態であってもただ目をつぶり深呼吸をするのみで診断に困る、と主治医が沖青年に訴えるほど、父親は自己統制に富んだ人柄でした。
「ちょっとしたことで騒げば苦しみを多く感じるものだ。騒げば自分に悪いだけでなく、他人にも迷惑をかけることにもなろう。
暑ければ静かに暑さを感謝してうけとれば良いのだ。
暑さ、寒さ、乾き、湿り、すべてがあって物が育つ。それらすべては命の恩人だ。神仏のご功徳だよ。」
夏の暑い最中にも一度も「暑い」と口にしない父親に、なぜなのかと尋ねると父はそう応えるのでした。そして話を続けました。
「宇宙と社会に起こる現象すべては、皆必要な自然の計らいだ。神業といっても良いだろう。
ひとつひとつのことの中に、神の御心を汲み取れるようになるのが宗教心だ。神の御心とは、それら現象の意味や価値、必要性のことだ。
そうしてその御心を感謝して受けとれるのが信仰心だよ。」
沖青年が18歳となった1937年の12月、入院していた父親が突然家に帰ってきました。九州の病院から2日もかけて韓国の家に戻ってきたのです。
家族はもちろん大喜びです。父のリクエストにこれまでにもよく開いていた兄弟の学芸会で、歌や物語を披露しました。
そしてその後座禅をしたいと冥想を始めて半時間、父の目、耳、口から血が溢れ出しました。
死を悟っての帰宅だったのです。
それから少しして、静かに、まるで生きているかように、父は座禅をしたまま息をひきとりました。
7年間の父親の闘病生活で、沖家には多くの借金がありました。長男である正弘は家計を助けるため、警察官だった父親の友人に仕事の斡旋を懇願しました。
そして父の死の2年後、特別諜報員として蒙古、そしてインドへ派遣されることになったのです。スパイとしての仕事です。
太平洋戦争が始まる3年前、戦争の形態が加速的変化をしてゆく中で、謀略的戦略が重要になるという世界的な潮風の流れに、日本も影響を受けていました。
一説によると沖正弘は、そのスパイ養成を目的に創設された陸軍中野学校の第一期卒業生だったとも云われています。
その教育科目は軍事学、武術に留まらず、諸外国語、細菌学、薬物学、法医学、心理学など多岐に渡っていました。なんと忍術やスリの講義まであったとか。
沖青年の初めての任務はチベット潜入でした。チベット僧に扮する必要から、まずは蒙古のラマ寺で8ヶ月程の修行を積むことになりました。
モンゴルのチベット寺院は当時、日本の常識からかなりかけ離れた状態でした。寺に居る大半の人々は梅毒に犯されており、衣類も食器も洗浄するという習慣がなかったのです。
サンスクリット語のお経を覚え、本物のチベット僧らしく振る舞えるようになる。その達成を目指し、沖青年はただ必死で不快と苦しみに耐えました。
苦痛に耐えることができたのは、様々な教えを思い出し、これまで教えを請うた聖師達を忍ぶことだったと、沖は著書の中で述べています。
蒙古からチベットへはいくつもの砂漠、そして山脈を越えなければなりません。
50日間かけ、やっと甘粛省の蘭州に辿り着いた時、沖ら一団は毛沢東の八路軍に襲撃されてしまいます。仲間は皆行方不明となり、沖青年は命からがらイスラム寺院に駆け込み、一命をとりとめました。
回教徒に命を救われた沖青年は、イスラム教に興味を持つようになります。そしてその縁から、イスラム圏工作の任務を帯びることとなりました。
インドからイランへ渡り、イランの回教徒を通し、中国の新疆省へ侵入する工作です。
インドでは、かねてから教えを請いたいと願っていたガンジーを訪ねる機会を得ることができました。オッタマ僧正の紹介です。
沖青年はガンジーより、彼が平和思想家で真の自由人となれたのは、ヨガを学び実行してきたからこそと聞き、その理論と方法をぜひ身につけたいと申し出ました。
するとガンジーはオッタマ僧正と同じく、ヨガは密教であるから教えることは出来ない、と云います。しかし生活そのものをヨガとして行じているのでそこから学ぶとよい、と滞在の手配を整えてくれたのでした。
ガンジー師の1日はまず、呼吸法から始まりました。そしてマラソンで体を温めると、すぐに水浴します。
これはすべて、眠りから目覚めへ、副交感神経から交感神経へ、アセチルコリン刺激からアドレナリン刺激へ、といった逆刺激によるバランス維持法です。
そしてその後に冥想することで精神統一をし、バランスをとり安定を計っていることが分かりました。
ガンジー師の生活ぶりを真似ているうちに、沖青年はヨガとは自然の法則に従うということだと理解しました。
絶え間なく変化する中で、常に心を進化させながらバランスを取り続け、安定した生き方をすることが、ヨガであると体得したのでした。
ガンジーはまた、人間は普段どうしても食べ過ぎてしまう傾向にあるので、断食によってバランスをとることが必要だと沖青年を感化しました。
すべてを学びとろうとする、鋭敏で聡明さに溢れたこの若者にガンジーは云うのでした。
「お前のやり方を発見しなさい。真似するのは原則だけだ。
自分で自分をどの様に生かせば一番能力を発揮できるのか、自分の生命が一番喜ぶ自身の使い方、体の使い方、心の養い方、生活の仕方を発見することが、安定を導くのだ。
そしてそれがヨガなのだよ。」
be continued . . . . . . .
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