2016年5月17日
柏原ゆうた@いつヨガ
「分かち合えば分かち合うほど、神はわしらに分かち合うものを与えてくれる。わしらは他人と分かち合うとき、本当は神と分かち合っているんだ。」【ラコタ族長老ノーブル・レッド・マン】
なにかをシェアするとき、それは自分に幸せもを与えることになる。
無償で譲ってみたり、格安で配布してみたりしてもいい。
いきなり幸せになるなんてことは難しい。
しかし、正しくヨガをしていくとそういった行為のなかから幸せを見出す素質が磨かれてくると感じる。
ヨガの守るべきと推奨されることに則ってプラクティスをしていけば、バクティ(親愛)の性質を磨くことにつながるんだと思う。
ヨガの生徒さんのなかにおみやげや本、なかには着物を譲ってくれる人もいる。
彼女ら(彼ら)の中にあるもともとのステキなバクティ(親愛)の気持ちを磨くことに微力ながら貢献できてるのかなと。
そう考えるとなんだかそれだけで嬉しい。
ぼくはなにを分け与え、譲ってるかといえば、ヨガの正しいプラクティスの知識。
これの質を高めるためならあっちへ飛んだりこっちへ飛んだり。
高いお金を払ってもらってきた知識を惜しげもなく伝えていく。
そのなかには「普通の」ヨガクラスには出てこないような知識とか貴重な情報もある。
でも出し惜しみをするのは失礼だし、なんのために得てきた知識なのかと。
自分だけが独占するような人に、どんな幸せがあるっていうのか。
聞かれたらいつでも惜しみなく答える。
でも聞かれてもいないのにベラベラとはしゃべらないこと。
これがぼくにとって大切な教訓です。
人に教えるほど十分な知識がないという感情を払拭するために、考え方を変えましょう。
私は「教える」というより「シェアする」と考えるようにしています。自分の知識や経験をシェアすると考えれば、教えると考えるよりもプレッシャーに感じません。
教えるって立場より、仲間としてシェアすると考えれば随分気が楽になりますよね。
質問にすべて答えられなくても、間違えても大丈夫。
「自分の知っていることをシェアする」と考えることで、失敗したり気が変わったりしても、そこまで落ち込んだりしなくて済みます。それに、「シェアする」のは自分の経験から得た知識です。
生徒にとってはあまり価値のないものだとしても、教え始めるのが楽になる考え方です。
東洋の聖者はバクティ(親愛)の気持ちをもって誰かに奉仕することは、神への奉仕にほかならないといいます。
それはその人を通して、より深いところに住んでる神さまに捧げ物をするということ。
そしてそれは最初にも言ったように、自分を幸せにすることに通じます。
誰かにシェアするってことは、きっと自分もなにかをシェアされてる。
言語化できない感情的な部分かもしれないし、物理的になにかいただくかもしれない。
どちらにせよ、やらないことのほうが損だ。
シェアすることから喜びを見出していきましょう。
譲っていくことのサイクルになにかおもしろいものが見いだせます。
まずは、肩肘張らずにちょっとした知識をシェアしてみましょう。
「いつヨガ」管理人の柏原ゆうたでした。