2016年7月9日
柏原ゆうた@いつヨガ
感謝を強制するのは、もうなんというか醜い。口だけのありがとうに重みはないのだから言わせない方が気持ちは楽でしょう。
ありがたいという気持ちが発生すれば、感謝は勝手に起きるもの。
「ありがとう」と100回ぶつぶつ唱えても幸せになれるわけがない。
仲良くしなさい、といわれてできるなら戦争なんかおきない。
そういってる大人が仲の悪い人でいっぱいなのだから、こどもにそれはできっこない。
仲のいい奴って、なんかいつのまにか横にいるものでしょう?
同じように謙虚さは勝手にわくもの。
自分よりずっとすごい人を知っているからこそ、謙虚さはわいてくる。
中途半端な人は自分が一番すごいと思い込んでるから、ものすごい偉そう。
どれも自然発生的に起きるものだし、誰かに言われてわいてくるものじゃない。
そして、暗い人にもっとポジティブになれというのはもはや暴力だ。
ネガティブな感情がわくのは自然なことで、コントロールしようにも、どうしようもないこと。
怒りとか嫉妬とか不安とか、そういうネガティブな感情は、その感情そのものが良くないものなのではなく、その感情に引っ張られて、いろんなことをごちゃごちゃ考えたり、変な情報を取り込んだりするのが良くないのだ。だから感情それ自体を否定しても解決しない。
もしネガティブな気持ちがずっとつづくなら、それは自分らしく生きていないというアラーム。
ヨガのプラクティスをしていて苦しみを覚えるなら、それは自分らしくないプラクティスをしているということ。
これがやりたい、あれがやりたいという想いにまっすぐに生きてると楽になる。
こうでなきゃいけない、という思い込みに私たちはしばられる。
ほんとはもっと自由だし、なんだってやっていい。
アーサナをやりたいだけやればいいし、プラーナヤーマ(呼吸法)も好きな時間だけやればいい。
僕らは思っているよりも、もっともっと自由。
本当はやりたいことがあるけど、なんとなくめんどくさい、こわいという感情にしたがうことに、自由を享受してしまっている。
めんどうくさいという感覚に従うことに、自由になっちゃっている。
誰もが自分が考えていること引き寄せている。
邪悪な上司の元で働いて、転職活動をせず、自分の好きなことを抑制すること。
その環境に身を置き続ける自由を実行してしまっている。
世界は自由をくれた。嫌な仕事を続ける自由、邪悪な上司の下で働く自由。
もっと好きにやってもいいと思う。もちろん、家族や部下を支えないといけないということもある。
それでもブラック企業で働く自由を享受しているし、キャリアアップをしないという自由にしたがっている。そう考えることもできませんか?
神様がいたら、きっとこういってくれると僕は思う。
「もっと好きにやっていいんだよ。もう2、3歩踏み込んでも大丈夫なようにできてるから」
それでは、柏原勇太(かしわばらゆうた)でした。