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2016年4月9日

ゆきゑ

ヨーガ偉人スーパー列伝『伝統に挑む!ヨギ・バジャン』- 其の後編 -

若干16歳と半年のヨギ・バジャンがクンダリーニヨガのマスターとして聖者ハザラ・シンより認められた頃、インド国内ではヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が深まりつつありました。

時同じくして1945年の第二次世界大戦終了後、世界的にも植民地化の脱却を求める流れが強まる中、最大のイギリス領土であるインドでもマハトマ・ガンディーの指揮による独立運動がインド全土へと広がってゆきます。

 

しかしこの独立運動は各地方に住むヒンドゥー、イスラム両教徒の互いに対する不信、そしてガンディーへの反発を生む結果となってしまいます。

 

そしてガンディーの「ヒンズーとイスラムが融合した統一インド」という思惑に反し、国内は宗教暴動の嵐へと突入するのでした。

 

 
* 最後のレッスン *
1946年、聖者ハザラ・シンは彼の弟子達を集め宣言しました。

 

「これより “生き地獄” へと突入する。戦いの時代の始まりだ。

私の師としての時は終った。私は行かねばならない。そして、お前達は決して私と共に行くことは許されない。

これは私の最後の命令だ。

私の元を去りなさい。そして今後一切、私達は顔を合わせることはない。」

 

師の命令は絶対でした。

大きな打撃を受けつつも、師への絶対的な服従を訓練されていたヨギ青年はこの指令に従わない訳にはいかなかったのです。

 

ハザラ・シンはその後独立運動、そして宗教闘争の中で自由を求める戦士として危険な任務を負い戦い続けました。

 

ヨギ・バジャンの師との別れは想像するに忍びない程辛いものでした。

しかし、師から言い渡された最後のレッスン「二度会うことは許されない」という指示を破る訳にはいきません。

 

遠くより師を慕い、案じ、密かに行方を追跡してもいました。

 

インドとパキスタンの分離独立後、ハザラ・シンはパンジャブ地方のドラハ市にある村で平和な結婚生活を送ったそうです。

 

後年一度だけ、敬愛しつづけた師の住む村の近くを通りかかったヨギジは堪らず、使者を通しハザジへ自分が側にいることを伝えました。

ハザジは応えました。

 

 

「お前がそこにいることは分かっている。自分の成すべきことを続けなさい。」

 

 

 
* 功績 *
クンダリーニヨガとタントリックヨガをマスターしたヨギ・バジャンは更にハタヨガ、そして神経系組織の影響とバランスについても学びを修めます。

 

高校、大学ではアスリートスターとなり、数々の大会で常にトップの成績を残しました。サッカーのキャプテンを務め、さらにホッケーの選手としても活躍したそうです。

 

通常アスリート達は激しい身体のエクササイズに取り組みますが、ヨギ青年はヨーガをマスターすることで身体、そして精神の強さと持久力を鍛え上げたのでした。

 

 

1947年、ヨギ青年の住む小さな村があるパンジャーブ州はとうとう宗教暴動の大混乱に巻き込まれました。

 

パンジャープ州に住むヒンドゥー教徒地域のイスラム教徒はイスラム教徒地域へ、反対にイスラム教徒地域のヒンドゥー教徒、及びシーク教徒はヒンドゥー教徒地域へと、それぞれ強制的な移動による難民化を余儀なくされたのです。

 

一千万人以上の人口流入と移動の大混乱で、この地方の両教徒の間で衝突、暴動、そして略奪や虐殺が繰り広げられる大変な惨事となりました。

互いの敵対観が深まる中、報復の連鎖は各地へ広がり、一説によると100万人に達する死者が出たそうです。

 

 

この狂乱の最中、18歳のヨギ・バジャンは彼の住む村人7000名の移動を先導することになりました。

そして現在パキスタンのラホール付近となる場所より、523KM離れたニューデリーまでの全行程を徒歩にて、村人全員を無事に到達させたのでした。

 

 

 

keep up! colourful Yogiji

 

 

 

ヨギ青年はその後パンジャブ大学の経済学科を卒業し、心理学の博士号をも取得します。そしてインド政府の税務省でキャリアを積んだ後、空港の税関局長を勤める傍ら、人々にヨーガを教え続けました。

 

そしてその生徒の一人、ニューデリーのカナダ領事館の長官にカナダのトロント大学でヨーガを教えて欲しいという依頼を受け、北アメリカへ旅立つことと相成ったのです。
 

 

時は1968年。

ラブ&ピースの時代です。

 

 

 
* GO WEST *
ベトナム戦争が泥沼化する中、アメリカ西海岸の若者の多くが愛と平和を目指し、自然回帰とセックスの解放による世界の改革を目指し出しました。ヒッピーカルチャーの到来です。

その改革を象徴するのは花。彼らはいつも花を身につけていました。

 

1965年、ベトナム戦争反対を求め米国国防総省前に集まったデモ行動で、彼らは警備隊に対峙します。あちらこちらで衝突が続き、両間は一触即発の危機状態。

M14ライフルの銃口を突きつけられ発砲の緊張が高まるその最中、あるひとりの若者が手にしていた一輪の花を銃口へ挿し出しました。

この行動で高まっていた緊張がゆるみ、若者達は次々に目の前の銃口に花を挿していったのでした。

戦いを愛で封じるかのようなこの瞬間の写真は「フラワー パワー」と題され、この年のピューリッツァー賞にノミネートされています。

photo by Bernie Boston, taken on 21/Oct/1967

photo by Bernie Boston, taken on 21/Oct/1967

この出来事からフラワームーブメントとも呼ばれるピッピー達の愛と平和の運動は、世界中の若者達の共感を呼び起こします。また、米国国内の世論を動かし、北ベトナムへの大規模な爆撃の中止と当時の大統領の政界引退を導くこととなりました。

 

 

世界的なこのムーブメントの中、多くのヒッピー、そしてフラワーチルドレンは精神的なアイデンティティを求め、神とは何かを探求しようとインドを目指しました。

こうした若者達を目にしていたヨギ・バジャンは安定したインドでの地位と家庭生活を手放し、ヨーガの智慧を北米で教えるという使命感が芽生えていったのでした。

 

 

カナダに到着したヨギジを待っていたのは、彼を雇った大学教授の事故死と預けた荷物が無くなるという知らせでした。仕事を失い、手元にあるのはカナダ政府が支給してくれた$35と身につけている衣類のみ。

 

しかし彼は思ったのです。

「それが神の意志ならば、私は喜んでそれを受けよう。」

 

本屋の店員の仕事にありついたヨギ・バジャンは前日の堅くなったドーナッツをお湯に浸し食し、新聞紙を足に巻き付け暖をとりながら、カナダの容赦なく寒い季節を過していました。

程なくしてヨーガセンターでの神経のセラピストとして雇われたヨギジは、幾つかのYMCAでヨーガを教えるようになります。

そしてカナダに到着し3ヶ月の間に、カナダナショナル新聞とTVからの取材を受けるまでに彼の名は広がっていったのでした。

 

 

同年12月、ロサンゼルスに招待されたヨギ・バジャンは、1週間の休暇を過すために知人を訪ねます。

 

彼を待ち受けていたのは、本場ピッピーの若者達との運命の出会いでした。

 

 

 

 

 

 
* Healthy Happy Holy Life *
愛と平和に象徴されるヒッピーカルチャーは、フリーセックスとロックンロール、そしてドラッグに彩られていました。

こうした行為に耽る若者達に出会ったヨギ・バジャンは、彼らが究極に求めているのは「神を経験すること」、そして「高次の意識の経験」であることを見抜きます。

 

確かにセックスはワンネスをもたらし、音楽とドラックは意識の変容を促してくれます。

しかしフリーセックスもドラックの使用も深刻なダメージを神経系に与え、オーラを弱体化させ、エネルギーの流れに滞りを生じさせます。

 

 

精神世界の探求を切に求める若者達の魂は、目覚めるのを待っている。彼らはアクエリアンエイジの時代の幕開け案内人となる魂達でした。

 

 

この出会いはヨギ・バジャンにとっての新しい挑戦でもありました。

厳格なインドヨーガ界の掟を破りクンダリーニヨガを一般の、しかも西洋人に教える決意を固めたのです。

 

クンダリーニヨガを学ぶことができるのはマスターに仕え、謙虚さ、自己統制力、献身を認められた者だけ。何千年もの間守られてきた秘密を破る者、またはその秘密を暴こうとする者は次の誕生日を迎えられないとまで云われていました。

 

しかしヨギ・バジャンは、意識の拡張を求めドラックの乱用で傷ついた精神と感情を抱える何千人ものピッピーの現状を打破できるのはクンダリーニヨガの技法だけであり、彼らの魂の欲求を安全にかつ効果的に導くクンダリーニヨガを教えることは必然であると判断したのです。

 

 

「健康で、幸福に満ち、神聖であることは人間として生きる基本である。」

 

 

このモットーの下、ヨギ・バジャンは密教的精神世界の民主化に新たなる彼の人生を捧げました。学びたい者すべて、練習をしたいと望むすべての人々へ、クンダリーニヨガの技法と瞑想、そしてヨーガの哲学を教え続けました。

 

 

『目醒めのヨーガ』と名付けたクンダリーニヨガは、瞬く間にアメリカ全土へ広がりました。

 

彼の存在はマグネットのようでした。180CMを超えるパワフルでダイナミックな外見はもとより、大胆不敵で歯に衣着せぬ物言いでありながら、謙虚な態度で出会うすべての人々に気分の高揚と啓発をもたらしたのです。

 

「私を愛するのではなく、私の教えを愛しなさい。そして学んだことを教えなさい。

私はグルになる為にここに来たのではない。私は先生を作りにやって来たのだから。」

 

ヨギジの口癖でした。

 

 

敬虔なシーク教徒だったヨギジは、米国での活動を認められ西洋におけるシーク教のリーダーとなりました。宗教間の垣根を広げる先駆者として活躍し、1983年そして翌84年に、ジャン・ポール2世と公式な宗教の相互関係における意見交換を交わしています。

また、ダライ・ラマやイギリス国教会の大主教とは共に協力し合い、世界における調和を計る活動を続けました。そして、世界平和のために祈りを捧げる日を設けることを提唱し、1985年6月より毎年「世界平和の祈り」を開催することを実現させました。

 

 

シーク教の教えは人生の法則(ダルマ/Dharma)に基づいています。それはすべては対等であり、直接的な神聖なる経験が人生の目的であるというものです。

献身的な行動とボランティア精神、そして神とのワンネスにすべての人が到達するよう助け合うのが、シーク教の教えです。

 

 

 

ヨギ・バジャンのクンダリーニヨガの教えは、宗教を超えた精神性、宇宙的意識そのものでした。

 

それはヨーガが現実の科学であり、すべての生命の内なる神聖の経験による証拠がヨーガである、という彼の信条に現れています。

 

 

「もしあなたにすべてのものの内に神が見えないのなら、あなたに神は見えない。」

 

 

教師であり、宗教リーダーであるヨギ・バジャンは、複数のビジネス設立者でもあります。現在米国国内はもちろんのこと、世界各地で展開されているヨギティ、ケトルチップス、ゴールデンテンプルフード、そしてコンピューターから音楽、セキュリティ会社など、14もの株式会社のコンサルタントを請け負いました。

 

ヨーガの科学と知識をあらゆる方面において実践し、人々をインスパイアし続けたヨギ・バジャンは2004年10月6日の夜、ニューメキシコ州のエスパニョーラにある自宅で家族と弟子に見守られながら彼の肉体を離れました。75歳でした。

 

 

その3日前、ヨギジは最後のレクチャーの中で語りかけました。

 

 

「神と魂は永遠である。不滅だ。

 

私達は行かなければならない。誰もがある日、そのステージに立つ。

体は永遠なる魂となるのだ。…… 私達が神の無限の光であることを理解させてあげなさい。….

 

人生とはお互いのために生きることだ。お互いのために生きるのが、命を生きるということなのだよ。」

 

 

 

2012-yb-5

 

 

 

参考文献とサイト:

he Aquarian Teacher KRI International Teacher Training in Kundalini Yoga As Taught by Yogi Bhajan’, Yogi Bhajan PhD, 2003

https://www.3ho.org/yogi-bhajan/about-yogi-bhajan

http://www.yogibhajan.org/main/yogibhajan.html

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ゆきゑ
エナジーヒーリング、カフナボディワークなど、心、体、スピリット、魂を揺さぶる全てをライフワークとして従事。そして、それらをシェアすることをこよなく愛する、KRI認定クンダリーニヨガ講師。 ヨーガ仲間より「ゆきゑ節」と称される剽軽な喋りは、クンダリーニヨガを教える時に「世界の美しい宝石をちりばめた言葉」へと変容し、深いジャーニーへと皆様を誘います。

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